006

魔族の少女


 ゼロは意識が覚醒していくのを感じた。徐々に覚醒に近づくにつれ、自分が倒れて意識を失っていた事を自覚する。続いて、彼は二つの感覚に気が付いた。一つは全身を覆う痛覚。腕も、脚も、顔も、腹も、胸も、どこもが悲鳴を上げている。負けたという事実を思い出し、精神でさえボロボロの有様だ。
 二つ目の感覚は、ぬくもりだった。温かい、優しい感覚が、彼の後頭部を包んでいる。痛みと共に、この感覚がなんなのか、それが気になった。
 目を開ける。突然の光に視界の回復が遅れるが、徐々に輪郭を帯びる世界に、自分を覗き込む少女の姿があった。
「大丈夫?」
 彼女は目を覚ましたゼロに気付き、そう聞いた。
 ゼロは覚醒した意識で、状況を把握する。まず、少女は人間ではなかった。似た姿を有しているが、頭部に2本の角が見えている。片方は中ほどで折れているが、残っている方は立派なねじれ角だ。その人間ではない少女の蒼い瞳がゼロの顔を真上から覗き込んでいる。
 後頭部に彼女の体温を感じ、ゼロは自分が彼女に膝枕をされているのだと知覚する。覚醒し、いつまでも彼女の膝を借りる訳にもいかないと、ゆっくり体を起こす。油断ならない痛みが体に走った。
「――ッ!」
 顔を歪め、動きを止めるゼロに、少女は急いでその体を優しく支えた。
「今、治すね」
 少女はそう告げると、人間の言葉ではない呪文を唱えた。続いて、ゼロの体を光が包む込むと、体から徐々に痛みが引いていく。
 魔法だ。その事に驚きつつ、ゼロは少女の姿を改めて見る。
 ぼろ布を体に巻き付け、首には痛々しい首枷がはめられている。単純な労働力として、道具として扱われるその姿。
 周辺を確認すれば人気のない入り組んだ都市の路地裏で自身が捨てられていた事が分かる。その路地裏の住人であろう彼女はボロボロの体で、更にボロボロのゼロの為に賢明に力を使っていた。
 痛みが軽くなり、体に少し力が戻るのを感じる。同時に、少女が手を下ろした。
「ごめんなさい。僕に治せるのはこの程度で……」
 体を確認するが、傷と痛みは少し残っているものの、先程の痛みでまともに動けない状況に比べればかなり良い方だ。
「ありがとう。大したものだ。……君の名前は?」
 痛みの消えた体の各所を確認しつつ、少女へ語り掛ける。
「エミネ」
「エミネ、か……」
 エミネと名乗る少女は、すすや土で汚れていたが、ゼロを見つめる蒼い瞳は、驚くべき程の透明度を有していた。どこまでも吸い込まれそうな、その瞳も相まって不思議な雰囲気を纏っている。
「あなたは? どうしてこんなところで怪我をしていたの?」
「私はゼロ。実は下手を打ってしまってね。……軍の者と揉めた、という事なのだろうな」
 ゼロは思い返す。部隊長との試験。自分の身を守る事を禁じられた己の力。
 そんな思考が彼の頭を呑もうとした時、気の抜けた低い音が辺りに響いた。
 ぐぅぅ。
 音に、エミネが慌てておなかを押さえた。どうやら彼女のおなかの音のようだ。
「おなかが空いているのか?」
 その様子に、ゼロは何か食べ物がないかとわが身を探すが、残念ながらおなかを満たせるようなものは持っていなかった。
「すまない。私も今は食べ物を持っていなくてね」
「大丈夫です……ごめんなさい」
 エミネは言い、恥ずかしいのか恐れているのかよく分からない表情のまま固まっていた。
 その様子に、少しやりきれない感覚を心の内に感じるゼロ。彼はエミネに何か声をかけようと、口実を探す。
「……私からも聞かせてもらえるか。何故助けた?」
「……僕と同じ匂いがしたから」
 どういう意味だと聞こうとしたゼロ。しかし、その耳に突然の怒鳴り声が響く。
「――こんなとこに居やがったのか!」
 それは低い、男の声。ゼロが声に振り向くと、中年の太った男が怒りを露わにした表情で立っていた。その男は、地面に座るゼロを押しのけて、エミネの腕を乱暴に掴みとった。
「逃げやがって――いったいお前にいくらかかったと思っている! 軍に見つかったらどうするつもりだ!」
 エミネを強引に引いて歩き出そうとする男。その腕をゼロが掴み、制止した。
 突如乱入したゼロに、中年の男がその怒りの視線を送る。エミネとは相対的な、濁った灰色の瞳がゼロを睨みつけた。
「なんだお前は?」
 汚れた姿のゼロに、男は汚物を見るような目線で吐き捨てるように言った。
「気安く触れるな汚らわしい!」
 腕を振り払おうとするがゼロは離さない。睨む男に、ゼロもじっと視線を送ると、男は意外にも簡単に情けない声をあげた。
「な、なんだその目は! 自分の物をどうしようと勝手だろうが。お前には関係ないだろ!」
 男がまた腕を振り払おうとした所で、ゼロが不意に腕を離す。バランスを崩して転びそうになる男だったが、なんとか踏みとどまる。彼は怒りの色を再度濃くして叫んだ。
「このッ――なんなんだお前は!」
「私はゼロという。この娘に恩があってね。君が買い主か?」
「ああ、俺が飼い主だ! 分かったらそこをどけ!」
「聞こえなかったのか。恩があると言っている」
 体勢を崩した際に男から解放されたエミネ。庇うようにゼロが立つ。対する男の怒りは火に油を注いだようにに勢いを増していくのが見て取れた。頭部に現れた染まる赤色が、ある程度の濃度となった頃、業を煮やした男が右手のひらをゼロへと向けた。怒りと若干の焦燥で埋め尽くされていた顔が一転し、不敵な笑みが浮かびあがる。そして、その歪んだ口元はそのままエミネと同じ言語で呪文を吐き出した。
「俺に逆らった事を後悔して、――死ね!」
 響く轟音。その破壊の力は路地裏にある物を軒並み破裂させながらゼロへと迫る。壁も、床も、鉄で出来た箱も飲み込んだその力の塊。しかし、その力はゼロに届く事なく、直前で静止した。
「な――ッ」
 静寂。自身の力が及ばない事を確認し、目を見開く男と、それを無表情に見返すゼロの姿がそこにはあった。
「なるほど」
 ゼロは自覚する。エミネの為にこの場で力を使おうとした己が、力の発動に成功したのだと。制約とは逆に、特定の条件下であれば使用できる事を意味するのだと。
「クソッ! なんだお前は!」
 焦燥の表情が強くなり、短い詠唱の低級魔法を連発する男。しかし、そのどれもがゼロにもエミネにも届く事は無い。
「それは先程答えた質問だ。こちらからも質問だが、この国では奴隷売買が許諾されているのか?」
「知れたことを! それどころか魔族は……」
 男が言いかけた時、男の背後から複数の足音が鳴り響く。足音と共に鳴る金属音。鎧を身に付けた軍の人間である事が予想出来た。それは男も同様だったようで、音を聞くなり今度は狼狽した様子で、エミネと足音のする方向を交互に見る。
「軍がきちまった! 畜生がッ」
 男は心中で葛藤があったようだったが、最後には悪態を吐き捨てて逃げ出した。あんな軍でも治安の維持にはしっかりと貢献しているらしい。ゼロが悠長に思っていると男の逃げた方向とは違う路地から数人の軍人が姿を現す。
「いたぞ、例の男だ」
「おい……あれは」
 駆け付けた軍の人間はゼロを探していたようだが、こちらを確認するなり様子がおかしくなる。ひそひそと何か確認を取り、武器を構えた。それは訓練用の長棒ではない。戦闘用の短刀だ。路地裏でも無難に動けるように考えられた正真正銘戦闘用の装備だった。
「いつの間にか指名手配でもされたのだろうか……」
 ゼロには読めない状況ではあったが、彼は反対の路地へと足を向ける。エミネの頭に優しく手を乗せ「じゃあな」と短く挨拶を交わした。狙いが自分であればエミネは大丈夫な筈だ。運が良ければ軍の保護を受けられるだろう。エミネは状況の目まぐるしい変化に身を硬直させていたが、ゼロは接近する軍との戦闘を避ける為駆け出した。
 しかし、すぐにゼロは自分の考えが間違っていた事に気付く。軍の隊員が武器をエミネへと振るうために構えたからだ。
「何故……?」
 気が付き、振り返ったゼロは隊員の短刀が振り下ろされるのを見る。それは的確にエミネの首元へと向けられた、息の根を止めるのを目的とした攻撃、殺意そのものだった。
「なっ……?」
 隊員の振り下ろした刀が首元の直前で止まる。まるで見えない力に押さえつけられているように、隊員が武器を動かそうとするも動かない。
 幸い、ゼロの力の発動は叶っていた。エミネが傷つく事はなく、駆け付けたゼロは少女をかばう様に前へと立つ。
 攻撃を防がれた事で、軍の者達は射抜くような視線を注意深くゼロとエミネへと向けていた。
「答えてもらおう。何故このような少女にまで武器を向けるのか。私を追っていたのならば関係のない者を巻き込むのはやめてくれないか」
 ゼロの問いに、いまだ動かぬ武器に苦慮していた隊員が答える。
「君は保護するよう言われている。しかし、魔族は我々の敵だ。そこをどけ! さもなくば貴様ごと始末する」
 道理が立たない。そうゼロは想う。
「退くのはそちらの方だ。いかに敵対した者であれ、罪のない子供にまで、ましてや自国の者から不当な扱いを受けていた者に刃を向けるのがこの国の正義とでも言うのか」
「魔族は即始末するように言われている!」
 別の隊員が手にした短刀を振ろうとするが、それも叶うことはない。既に発動したゼロの力は軍の短刀を捉えて、離さない。
「逃げろ」
 ゼロは軍の隊員から目を離す事なく、エミネへ告げる。いつ制約とやらで力が使えなくなるか分からない状況で、油断をするほど彼は楽観の考を持つ方ではない。
 先程、買い主の男は彼女が逃げたと言った。それは彼女が逃亡中の身で倒れていたゼロを看病していたという状況を表している。恐怖や不安から、一刻でも早くその場を遠ざかりたい時に、彼女は見ず知らずの怪我人を介抱した。ゼロにとってそれは擁護するのに十分な理由に思えた。
 エミネは少しの間逡巡したものの、やがて背を向けて駆け出した。対する隊員達は動けない。まるで足を何かで固定されているかのようにその場にくぎ付けになって動けずにいる。
「待て! ……なんだこれは――法撃士!」
 叫びと共に、隠れていた後方支援者の魔法による追撃が迫る。しかしそのどれもがエミネに到達するより前に、見えない力の壁に遮られた。
 離れていくエミネをゼロは注意深く確認する。やがて角を曲がり、姿が見えなくなった。この発展した都市の路地は複雑に、広く入り組んでいる。ある程度の時間を稼げば再度見つけ出すのは困難を極めるだろう。
 しばらくの間、力でその場の者を足止めしていたゼロだったが、そろそろ時間稼ぎも必要ないと思った時、力の制約が突然発動した。
「ッ――!」
 軍は動きを取り戻した一瞬を見逃さず、素早くゼロを取り囲み、組み伏した。そのまま、抵抗のなくなったゼロを押さえ付けて縛り上げる。
「報告を! 魔族の逃亡を確認。急げ!」
 ゼロを押さえ付けた隊員の一人が叫ぶ。すぐに別の隊員が駆けて行った。報告とやらを請け負ったのだろう。
「クソッ。本来ならば今すぐ処刑してやりたい所だが……お前はアイアス様のところへ連れて行く」
 悔しそうな表情でエミネの消えた路地を睨む隊員はそう告げると乱暴にゼロを縛る縄を引く。
「お前らは追え! 入り組んだ路地だが、人数をかければまだ間に合うかもしれん」
「はい!」
 数人が走り去り、残った者がゼロを見る。
「お前はこっちだ。大人しく歩けよ」
 手にした武器で警戒を示しつつ、彼らはゼロを連れて歩き出した。